人は人生で自分が望んだものを手に入れる。
逆に言うと、望んでいないものは手に入らない。
いや、そんなことはない、私はお金をほしいと思っているが、手に入らないぞ、と思う人がいるかもしれない。
お金が手に入らないのは、本当に手に入れたいと思っていないからだ。
まんぜんとお金がほしい、と思っているのは、望んでいるうちには入らない。
そこに山があるとして、ただそれを眺めているだけで、登ろうとしていないのだ。
望むというのは、山に登るということだ。
見ているだけの人間は、手に入れることはできない。
本当にお金がほしいと思っている人間は、それを手にするために、直ちに行動を起こす。
1円でも入ってくるお金を増やすために考え、休まず行動し続ける。
抜け目なく神経を使い、行動し、というのを飽きずに繰り返せる。
この飽きずに繰り返せる、というところが重要だ。
多くの人はお金を稼ぐための行動にのみ、焦点を絞って行動し続けない。
他にもっとしたいこと、もっと楽しいこと、やりがいがあることを見出すことが多い。
音楽を演奏する方が楽しい、文章を書く方が楽しい、料理をする方が楽しい、運動をする方が楽しい、など、様々に人の行動が向かう先はある。
その結果、音楽を人に聴かせて満足する時間を得たり、文章が人に読まれて満足したり、料理を食べたり食べさせたりして満足したり、体力が増進して満足したり、というように、望んだものを手に入れる。
それでも多くの人がお金がほしい、と考えるのは、そうすればお金を稼ぐための活動から解放される、と考えるからだろう。
お金は多くのものと交換ができるので、たくさんあればそれだけ物質的に豊かになれる。
そして、お金持ちはそれだけで一目置かれる。
だからそれを欲するのは、特におかしなことではない。
けれども、みながみなお金を稼ぐことだけを最大の目的として生きているわけではない。
それはどうしてだろうか。
思うに、人は自らやりたいと欲した行いに自分の時間とエネルギーを費やすことに、最大の喜びを見出すからではないだろうか。
お金はほしいと思っていても、それを手に入れるための行動は特に楽しくない。
だからそれ以外のことをする。
そのような人が多いのではないか。
もちろん、お金を稼ぐ行為に高い適性があって、それに専念して大きなお金を稼ぐ人もいる。
そういった人はすでに使い切れないほどのお金を持っていても、さらに稼ぎ続ける。
その人にとっては、お金を稼ぐという行為こそが最大の喜びをもたらすものなのであって、お金を持っているという状態にはそこまでの意味はないのだ。
それと比較して、お金がなんとなくほしいな、あればいいな、と思っている人は、お金を持っている状態には憧れるが、お金を稼ぐという行為はさほど好きではない。
だからあこがれで止まり、実際に多くのお金を手にすることはない。
自分に適性があって、やっていると満足できる。
そういったことを行うのを人は望む。
それが世の中で強く求められていたり、評価されやすいものであると、お金など、多くのものが手に入る。
しかし、合う合わないがあるし、誰もがその範疇に適合するわけでもない。
合わない靴を無理やりにはいても、足を痛めるだけだ。
自分に適する行い、自分に満足をもたらす行いはなんなのか。
それは人によって違い、世間からの評価とは、関係のない場所にある。
そういったものをまっすぐに見つめ、実行するための時間とエネルギーを確保することが、個人が幸福になるための道のひとつなのではないだろうか。
周囲の考えに振り回されていると、自分の姿はどんどん見えなくなっていく。
評価という結果を先に気にするのではなく、まず自分の姿をよく見きわめる。
それこそが、まず第一に行うべきことではないだろうか。