文章修行

文章修行のためにあれこれと書いていくブログです

何もしないでいるよりはゲームをした方がまし 8月7日の日記

 やる気が出ない時、何もしないでいるよりはゲームでもしていた方がましだ。
 と古代の著名な人物が言っているのだけど、誰だかわかりますか?

 正解は孔子で、論語に上記のようなことが書いてある。
 これを読んだときにうんうんそうだよね、と深く同意したのでよく覚えている。
 他に書いてあったことはほとんど忘れているのだけど。

 こんなことを書いているのは昨日はあまりやる気がなく、夜になるとけっこう長時間ゲームをやっていたからだ。
 元気なら夜であっても何かを書いたりしたいのだけど、昨日はあまりそういう気になれなかった。
 その代わりにゲームはけっこう進展し、楽しい時間を過ごすことができた。

 やる気がない時に無理に重要なことをやろうとしてもしんどいだけだし、結果がうまくいくこともまずないだろう。
 なのでそういう時はほどほどにやり過ごし、楽しさを重視するのもよいのではないかと。
 とは言え遊びすぎると今度はそっちで疲れてしまうので、楽しむのもまたほどほどにしたほうがいいかもしれない。

「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という有名な言葉があり、よく使われているけど、こちらも元は論語だったする。
 他には「切磋琢磨」もそうだし、論語は何かと引用しやすいから長く読まれ続けている、というところがあるのだろう。

 今日は引用が多いけど、自分で言葉を考える元気がないからそうなっている。
 疲れていると文章を書く力が如実に落ちるので、なるべく疲れないようにしたいところ。

毎日書くことの意味 8月6日の日記

 この日記は一ヶ月くらい続いているのだけど、毎日書くことの意味を見出しているから続いているのだと言える。
 何かしら書こうと思うと、そのときどきで気になることが思い浮かぶ。
 気になることは、はっきりと形にできていない感情や思いといったものが元になりやすい。
 書くとは形がないものに形を与える行為であり、そうすることで悩みや問題を解決するための糸口を見つけられることが多い。

 書いてみた結果、やっぱりよくわからないな、となることもあるのだけど、それだけ深刻な問題であるということで、解決に時間がかかるからじっくり取り組むしかない、とわかったのであれば、それも一種の前進ではある。

 日々いろいろと思いつくままに書くのは、自分の現在いる地点をはっきりさせることにもつながる。
 どこにいるかわからなければ、進むことも戻ることもできない。
 なので文章は無駄に飾り立てたり、自分をよく見せようなどとせず、正直に書くのが一番だ。
 そうでないと思考と認識が狂っていき、そのうちおかしな行動に出てしまったりする。
 ネットではそのようにして邪道におちてしまった人をたくさん見かけるけれど、言葉は扱いを間違えると自分に害をなし始めるので、取り扱いには慎重にならないといけない。

 とまあ、そんなことを意識したりしなかったりしつつ、今後も日記をぼちぼち書いていきたい。

力を上げるには 8月5日の日記

 ここのところは書く力をどうやって上げるか、というのを個人的な課題にしている。
 たくさん読んでたくさん書けばいい、と少し前に読んだ本に書いてあって、まあそれはその通りだと思う。
 問題は何をたくさん書くか、ということで、同じようなものを漫然と、えんえんと書いていても力は強まらないだろう。
 向上させるためには、普段取り組んでいないちょっと難しいこともやる必要がある。

 ゲームだとステージを先に進めると勝手に敵が強くなってレベルも上がっていくようになっているけれど、自主的にやる制作においては、自分で課題を設定していかないといけないところが難しい。
 あまりにも高い目標を設定すると届かなすぎてやる気がなくなるし、低すぎると意味がない。
 そのあたりのバランスをうまくとりながら、取り組む対象を考えないといけない。

 今の私にとっては長い小説を完成させるのが課題になっている。
 これもまたどのくらい長く、とかどのくらいの内容や面白さで、といった様々なハードルの設定がある。
 いい感じに設定できるとじわじわと腕が上がっていくのだろうけど、そう簡単にはいかない。
 悩んでいても解決する問題でもないので、実際にやってみながら、適切なハードルを設けられるようにしていくしかないのだろう。

 難しいのは難しいけれど、自分で好きに、自由にやってることだからこそ生じる問題でもある。
 そういうことができる状況や機会はそうそうあるものではないので、せっせと取り組み続けることにしよう。

仕事の疲れと回復する行い 8月4日の日記

 昨日は仕事で問題が発生してその解決法を探っていたのだけど、かなり時間をかけても見つからなかった。
 ネットで調べて見つかった解決法は効果がなく、手作業で探ってみてもわからない。
 こうなると一週間くらいかけて大がかりに作業をして解決するしかないのか…となっている。
 通常なら数分程度で終わることなのだけど、どうしても言うことを聞いてくれない状態になっている。

 具体的には、開発アプリの古いバージョンの更新が止まったので、新しい年代のバージョンに移行しないといけなくなった。
 しかし移行の途中でアプリがフリーズしてしまい、うまくいかない。
 アプリが立ち上がらない段階のエラーなので、コンソールで調べることもできない。
 何かのファイルが引っかかっている可能性があるが、ファイル数は数百単位あるので、どれが引っかかっているかを調べるには膨大な時間を要する。
 それくらいなら新しい環境に手作業で移植した方がよいのかもしれない…となっているのだ。

 こういう時は調査にどこまで時間を費やすか、あきらめて大がかりな作業に取りかかるか、その判断を下すのが難しい。
 1日調べてダメだったのだから、一週間かかることに取りかかってしまってもいいような気がするが、あと1日調べたら、もしかしたら解決するかもしれない。
 そう思うと作業に取りかかる気になりにくい。
 どちらにしてもやっかいな問題だし、1日かけて何も解決しなかったので昨日はけっこう消耗した。

 解決しないことはとりあえず忘れることにして、夜はオンラインゲームをけっこうな時間やっていた。
 面白いことや楽しいことに没頭し、悩ましいことや問題をとりあえず忘れるのも大事なことだ。
 食べたり飲んだりするのもいいのだけど、それだと胃腸に負担がかかるので、プラマイゼロになりがちだ。
 ゲームはちょっと目が疲れるという問題はあるけれど、それ以外では特に損なわれるものがないので、プラスの要因の方が大きい娯楽だと思う。

 漫画や映画など他の娯楽でもいいのだけど、疲れた時にはなにかに没頭すると回復効果が得られる。
 これは現実逃避ではなく、怪我をしたら治療を受けるように、心が疲れるようなことがあったら行うべき回復行為なのだと捉えると、よりポジティブに楽しめるのではないかと思う。

読みやすい小説と読みにくい小説 8月3日の日記

 天気予報によると日曜日から気温が下がり気味になるようだ。
 でもそれは台風の影響のようなのであまりうれしくない。
 早く平穏というか、何事もなく涼しく暮らせる日はこないのかと待ち望むばかりだ。

 ここのところいくつか小説を読んだのだけど、読み進めやすかったものと読み進めにくいものがあった。
 読み進めにくい小説には共通したところがあって、冒頭から登場人物が2人だけのシーンが長く続く。
 その方が書くのは楽なのかもしれないけど、読む方としては刺激が少ないのでだんだんと飽きてしまう。
 主人公に何人かが入れ替わりつつ関わってくる、というような話の方が次に何が起こるのか、という興味がわきやすく、それで読み進めやすくなるのかもしれない。

 でもただ事件が次々起こるだけではなく、主人公が何を思うのか、どのように内面が変化していくのか、そのような描写もないと読んでいて得られるものが少なくなる。
 出来事を見るだけなら映画やドラマなどの方がわかりやすいのでお手軽に楽しめる。
 文章で表現する強みは言葉による内面の描写がしやすいところにあり、そこでこちらの共感を読んで引き寄せることができるかが鍵になる。
 起きていく変化と、共感を深める心理描写と、そのあたりのバランスがうまく作られている小説は面白く、そうでない小説はどこか物足りない、と感じてしまうのかも。

 これは私の好みの話であって、2人だけでしばらく話が進む方が好き、という人もいるのだろう。
 だからそういう小説が出版されているのだろうし。
 好みでしかなかったとしても、自分が何を好むのかを明らかにしておくことも重要だと思う。
 というのも、最近私は自分でも作っているからだ。
 自分が好きだと思うものでないと、なかなか作るのははかどらない。
 他の人が作ったものに触れ、自分の感覚への認識を深めることで、自分が作りたいものの方向も見えてくるのではないかと思う。

熱いシャワーとぬるいシャワー 8月2日の日記

 毎日ほぼ同じような気候が続くと、昨日と今日の見分けがつきにくくなってくる。
 最高気温35度、最低気温26度でほぼ固定されており、少しは変化をつけてくれよと文句を言いたくもなってくる。
 つけたところで誰も聞いてはくれないわけなのだけど。

 一方で、ひどい暑さでもそれが続くと慣れてくるのか、ここ数日はそれなりに作業がはかどったりもしている。
 変化がないのは退屈なことだけど、何かしたいことがある時には外部の環境の変化は乏しい方がよいのかもしれない。

 また一方で、生活のありようは自分から変化させていくこともできる。
 昨日は熱いシャワーを浴び、体が熱くなってきたらぬるいシャワーを浴びる、ということをやってみた。
 本来は熱いお風呂に入り、体が汗をかくほど温まったらぬるい湯につかる、という疲労回復法なのだけど、この時期に熱い風呂に入るのは厳しいのでシャワーでやってみた。
 疲労が回復したかどうかはいまいちわからないのだけど、熱いシャワーを浴びた後でぬるいシャワーを浴びると気持ちがいいのは確かだ。
 これを4〜5回繰り返す。

 体内のメカニズムで言うと、熱いシャワーを浴びると交感神経が働き、ぬるいシャワーをあびると副交感神経が働くそうだ。
 この2つを交互に切り替えるとリラックスでき、疲労の回復につながるのだという。
 本でちょっと読んだだけの浅い知識なので、どうしてそうなるのかという理屈はあまりよく理解していない。

 これをやってみて思ったのは、サウナに入ってその後で冷水に浸かる、というのはこれをもっと極端にしたものなのかもしれない、ということだ。
 あちらは体に負担がかかりそうなのでやる気はないけど、シャワーの温度を変えるくらいなら手軽だし、これからも試しにやり続けてみようかと思う。

 ところで、その本には山梨の温泉には熱いお湯とぬるいお湯を用意してあるところが多いとも書いてあった。
 山梨の人は昔から熱いお湯とぬるいお湯を組み合わせるのがよいのだと知っていたようだ。
 そのころはまだ交感神経と副交感神経が…とか知らなかったろうし、体感ベースでそのような発見をして、やってみるとおおそうだな、確かに疲れがとれるわ、とみんなが納得して広まっていった、というような歴史があるのかもしれない。
 そのようにして昔から作られている形式があると、理屈は知らなくても信頼度が高まるような気がする。
 科学的に証明して知識を広げるのも大事なことではあるけども。

悩ましい状況 8月1日の日記

 昨日は天候が久々に悪くなり、その影響で気温が下がっていた。
 夜は26度だったのでこれならいけるかな、と思ってウォーキングをしたのだけど、やはり帰ってくるころにはしんどくなっていた。
 もう少し気温が下がらないと外での運動には適さないのかもしれない。
 と思うのだけど、30度くらいの中でもジョギングをしている人もいるので、そのあたりの耐性は人によって違うようだ。
 ともあれ、私の場合は夜の気温がもっと下がってくるまではウォーキングなどはしないことにする。
 しばらくは室内で筋トレなどをして補うとしよう。

 最近は仕事において、海外の法律がらみで対処しないといけない問題があって、どうしたものかと考えている。
 対応するのに手間はかかるのだけど、対応すると収益が減ってしまうのでやる気が出にくい。
 しかし対応しないと収益がもっと減ってしまうのでやらないわけにもいかない…。
 そんな感じの状態だ。

 ビジネスをしていると外部要因によって対応を迫られ、頭を悩ませられることがしばしば起きる。
 新しいものを作っていって拡大することだけに集中したいのだけど、世の中はなかなかそう単純にはいってくれない。
 一方の利益は他方の不利益になることがあり、その間のバランスを取るためにあれこれと雑事が発生する。
 世の中そういうものだと言ってしまえばそれで終わりなのだけど、やっかいであることに変わりはない。

 こういった問題をくぐり抜けて収益を伸ばすにはごりごりと作り続ければよいのだけど、あまり勤勉なたちではないので、そういうことがなかなかできない。
 それに最近気がついたのだけど、今やっていることはあるていど効率がよいからやっているだけで、本当に心からやりたいと思っているわけではないようだ。
 そういうことなら毎日でも喜んでできるはずだし、収益も伸びるでいいことづくめだ。
 でもそうしていないのは、一番やりたいことではない、ということなのだろう。

 効率のよいことをある程度こなして、そこで余剰を作り、やりたいことだけれど収益が得られるかわからないことをやっている。
 こういうのは分裂的な状況だし、精神的にけっこう疲れるところがある。
 1番やりたいことをやってそれだけで収益面も満たせるのが一番いいわけなのだけど、簡単にはいかないので、しばらくは二重化した状態を続けていくしかなさそうだ。

 やりたいことと収益面が一致しないというのは、人生で一番あるあるな悩みではなかろうか。
 そこから抜けるためには、やりたいことをやり通してみる、しかないのだろう。